2015年度 総会のご報告

 201574()1030分より京都ホテルオークラにて2015年度の総会を開催いたしました。今年は前日に同窓会支部長会を琵琶湖リトリートセンターで行い支部長様にも総会にご出席いただき、例年よりも多くの199名のご出席を賜りました。席札を一昨年は「八重の桜」放映にちなんだ○○桜、昨年は学校の建物名(栄光館、清和館等)でご用意しましたが、今年は祇園祭の鉾名がずらりと並びました。今井このみ先生の開会礼拝に始まり、議案はすべて承認され、無事終了しました。

 

 懇親会では同窓生の奥田かんなさんによる日本舞踊、三味線、胡弓の演奏をご披露いただき一同伝統芸能の美の世界を楽しみました。かんなさんはお父様の仕事の都合で米国に滞在した事があり通訳・翻訳の仕事も手掛けるほかご幼少の頃より続けた日舞は大学在宅中に宗家藤間流師範名取、日本舞踊を教えながら長唄も杵屋に入門し、胡弓は木場大輔氏に師事し現在は箱根湯本で芸者として三味線・胡弓を演奏する地方(じかた)立方(踊り手)として活躍していらっしゃいます。

 

 例年以上に盛大で有意義な交流を持てました事をご報告致します。

増田 操 記

総会 礼拝奨励文

 あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。

 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。

マタイによる福音書 5章 13節-15節

 「あなたがたは地の塩、世の光である。」この言葉は、私たちが同志社女子部に在籍していた時に、何度も耳にした言葉であり、「地の塩のように。世の光のようになりなさい」と先生方から教えられてきたと思います。はたして、女子部を卒業した私たちは、地の塩・世の光となっているのでしょうか。

 私が、かつて中学生・高校生だった頃、この聖書箇所が女子部のモットーになっているにも関わらず、私にとっては重荷になる言葉でした。この言葉が「立派な人になりなさい」と諭しているように感じたのです。他の人から「あー、すごい!」と思われるような人。職業を聞いて、誰かのためになる仕事をしているなと、すぐにわかる――たとえば、お医者さんであったり弁護士さんであったり、仕事についてなくても、自らすすんでボランティア活動をしているような、そういう人になりなさいと言われているように思えたのです。「塩に塩気がなくなれば、塩の意味はないでしょ? あなたも、なんらかの役に立ちなさいよ」と。
「塩気」とは何を意味しているのでしょう? みなさんにとっての塩気とは何なのでしょう? 塩気は味覚の一つだから、自分たちに置き換えてみると味のある人間ということなのでしょうか? それとも、やはり世の中や誰かの役に立つための才能ということなのでしょうか。

今改めてこの聖書箇所を読んでみると、重圧をかけるような言葉ではなく、むしろ励ましの言葉なのではないか、と私は思うのです。「地の塩、世の光」は、あの有名な山上の説教「○○な人(心の貧しい人、悲しむ人々……)は、幸いである」の次に書かれています。山上の説教は、一般の人々・村に住んでいる人々にむけてイエス様が語られたものです。国のお役人やイエス様を敵対視していた人に語られたものではありません。むしろ、ローマ帝国の支配下にあって抑圧を受けながらも懸命に生きている村の人々、農業や漁業などの仕事をしている人々や家庭を守っている人々、子育てをしている人々、中には体がしんどくて家で寝ていたけれど、頑張って家から出てきて野原に横になりながらイエス様の話を聞いた人もいるでしょう。そういった人たちに向けて語られた説教なのです。そして、「地の塩、世の光」も彼らに対して、続けて語られた言葉です。

 「今、あなたがたは生活が苦しくていっぱいいっぱいかもしれないけれど、大丈夫だよ。今、涙を流しながら夜を過ごしている人もいるでしょう。でも、大丈夫。笑顔で過ごす日々がくるからね。」。そういった励ましの言葉、将来に対して希望を持てるような言葉をかけたすぐ後に、イエス様が「あなた達は、世の中で役に立つ人にならなければいけません。役に立つ人間でないと、生きている意味はありません」というような言葉をかけられるとは思えません。

 では、イエス様は何をここの聖書箇所で私たちに伝えたかったのでしょう。

 塩は、どの家にも必ずあるもので、色んな用途に使います。料理においても、塩味をつけるためであったり、野菜の水分を抜くために使ったり。甘さを引き出すためにも使われます。そして、長期保存するためにも塩は欠かすことができません。料理以外でも塩は使われます。体を芯から温めるために、お風呂に塩を入れる方もいますし、汚れや角質をおとして肌をすべすべにするために最近では塩スクラブというものも流行っていると耳にしたことがあります。また、私が小さい頃はナメクジが出ると塩をかけて退治した記憶もありますし、これから夏本番の暑さを迎えようとしていますが、汗をたくさんかくようになると水分を摂取するだけではなく塩分も適度に取る必要がでてきます。塩は様々な形で私たちの生活を支えてくれています。いや、支えてくれるだけではなくて、「なくてはならないもの」なのです。

 私たちは、日常生活においての塩のような存在なのです。「神様にとって、あなた達はなくてはならない存在なのだよ」、イエス様はこのことを伝えたかったのではないでしょうか。あなた達がいなければ、神様にとってこの世は味気ない食べ物と同じ。愛しているからこそ、一人一人が大事で隠しておくことなんて出来ない。だから、人々の前に見えるように出すのです。人々の前で、それぞれに持っている光を照らし出して欲しいとおっしゃっているのです。神様にとって、私たちの存在が塩であり、私たちにとっての塩気とは神様の愛ではないでしょうか。私たちは、自分の力だけに頼ってしまうと周囲と比べてしまい自信がなくなって、自分の存在を輝かせることをやめてしまいます。でも、神様の愛を受けて「大丈夫だよ」「あなたの存在が私には必要だよ」と言ってもらえたら、ちょっと自信がわくような気がしませんか。そして、塩が多様な働きをするように、私たちも既に色んな形で役にたっているはずなのです。私たちの働きを通して、そこに神さまの業が現れているからです。

 同志社に入学し、神様と出会った私たちは、同志社生活の中で神様からの愛という塩気をたくさん受け、神様にとっての塩となったのです。今、私たちは家族にとっての塩となっていたり、仕事場においての塩となっていたり、どなたかお知り合いの塩になっているのでしょう。私たちは、女子部のモットーである「地の塩、世の光」を確かに背負えているのです。これからも、私たちの働きを通して神様の愛を示していきましょう。

 

 お祈りいたします。

いつも私たちを見守り導いてくださる神様。

今日は、同志社で出会ったたくさんの先輩同輩後輩の方々と共に礼拝をもつことができたことを感謝いたします。昔を振り返り様々な出来事を思い起こすと、あの時「神様が私を導いてくださったのだ」と、気づかされて感謝の気持ちでいっぱいになります。同志社に招いてくださったことや、こうして、たくさんの方と出会わせてくださったことなど、たくさんの恵をあなたから頂いています。感謝の気持ちを、ささやかながら行動にかえて、神様に返していくことができますように。神様、これからも私たちを見守っていてください。この感謝と願いを、イエス様のお名前を通して、あなたの前にお捧げいたします。アーメン。

奨励:今井 このみ(神戸多聞教会牧師)

2015年度 総会のご案内

※参加申し込みフォームはこのページの一番下にございます

参加申し込みはこちらから

ページの先頭へ